テセウスの船を語る│同一性のパラドックスとは

夕暮れと帆船
「テセウスの船」をご存じですか?

無論、元仮面ライダーが主演していたミステリードラマの方ではありません。数学的哲学的世界には「パラドックス」という「一見すると正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す」概念が存在し、古くから「答えが出ない命題」として、考察する人間を実に不条理に楽しませてくれています。

弊所は海事事務所ですので、本テーマとの接点は「船」のみという一点突破ではありますが、ぜひご一緒に哲学の世界観を楽しんでいただければ幸いです。

テセウスって誰?

テセウス(テーセウス)は、ギリシア神話に登場するアテーナイの王であり、ギリシャの国民的大英雄とされる伝説上の人物です。ちなみに神ではなく、人間の子であるものとされています。(諸説あり)

私自身、黄金やら青銅やらのファッショナブルな鎧を身に着けた少年が闘うアニメの直撃世代であるため、ギリシア神話は大好物の分野なのですが、色々と脱線してしまいそうなので深堀りは避けさせていただきます。あえてテセウスを語るのであれば、ミノタウロス(牛頭人身の怪物)を討伐した伝記が有名です。

テセウスの船とは

古代ローマ時代の著述家であるプルタルコスは、「英雄伝」の中で以下のように著述し、非常に興味深い命題を投げかけています。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂(かい)があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

(引用元:Wikipedia「テセウスの船」)

要するに、元々存在していた船が、徐々に古くなるたびに新しい部品に交換されていった結果として、全部の部品が置き換えられてしまったとき、その船がオリジナルの船(テセウスの船)と同一のものと言えるのかといった疑問を投げかけているわけです。また、さらに派生する問題として、交換された古い部品を集めて別の船を組み立てた場合は、一体どちらがテセウスの船なのかといった疑問も生じてきます。

いや、テセウスじゃなくて良くね?

まぁそこはいわゆる「権威主義」として、やっぱり語り継がれるための条件としては、登場人物は高名であるほどテーマに重みが増すわけですから、どうぞプルタルコスさんを責めないであげてください。笑

実例におけるテセウスの船

尼崎城
尼崎城

たとえば弊所が所在する尼崎市には、かつて「尼崎城」が存在していましたが、明治期に廃城され、その遺構は、城郭を形成していた石垣のごく一部にとどまっていました。

しかし、平成30年に資産家の方が当時の大きさや外観を復元して建築した天守を寄贈したことにより、元の位置からは離れてしまったものの、新たな尼崎市のシンボルとして「尼崎城」が衆目を集めることになりました。

さて、天守再建のいきさつや携わった方に対する敬意は一旦置いておくことにして、果たしてこの「尼崎城」は本来の「尼崎城」と同一のものと言えるのでしょうか?

これと同様に、常に構成する物質を変えながら流れる河川は、ずっと同一の河川であると言えるのか、年月を経て初期のオリジナルメンバーがすべて抜けたアイドルグループは、本当に同一のグループであると呼べるのか、日々細胞が入れ替わっている「自分」は、果たして「10年前の自分」と同一の人間であると言い切れるのか、といった問題が生じてきます。

つまり、「どんな状態をもってすれば同一性は維持されると言えるのか」という観点こそが、プルタルコスが後世に投げかけた「テセウスの船」の本質的な命題です。

考察

この問題の解決策については、古来より高名な哲学者が挑み続けてきました。まぁ答えを導き出すために考えるプロセスこそが哲学の本質と言えるので、結局のところ、ズバッと万人に響く正解は存在しません。そして改めて思うに至ったことは、「人間は同一性の無い事象に本能的な恐怖を抱く」という点です。

たとえば、昨日まで普通に話していた友人が、実は他人と入れ替わっていたと考えればどうでしょう。脳細胞以外の細胞は10年ですべて入れ替わることを知って、10年後の自分は、今の自分とは別人であるものと宣告されたらどう感じるでしょう。得もしれぬ不安と恐怖を覚えるのは、決して私だけではないはずです。

人間とは面白いもので、自分自身は新しい刺激を求める一方で、他者に対しては、無意識に「変わらないこと」を望んでしまいます。「昔はこうだった」とか「あいつは変わってしまった」なんていう言葉をよく耳にするのも、本能から来る不安の現れではないかと思います。その割に、他者に向けては、自分自身の「個性」を強調したりするところが、この生物の複雑な点であったりもします。笑

変わってええんやで?人間だもの。

なんだか本旨からは飛躍してしまったような気もしますが、これが私のたどり着いた結論になります。

海事法令による取扱い

それでは、現代の日本において「テセウスの船」がどのように取り扱われるのかを、海事代理士らしく海事法令に当てはめて論じてみることにしましょう。

現代における船舶は、国際海事機関(IMO)により船舶識別番号が割り振られており、途中で船名や所有者が変わっても、廃船するまで変更されることはありません。つまり、修理が行われようが、形状が変化しようが、番号によりその船舶の同一性は担保されることになります。

また、日本船舶については、櫓櫂船を除くすべての船舶が登録の対象とされています。「テセウスの船」が総トン数20トン以上の大型船舶に該当する場合は、登録に加えて、さらに船舶登記を行う必要があります。これらの公示制度によって、公的にも船舶の同一性が担保されますので、取引の安全性についても確保されています。

ちなみに、「テセウスの船」の古い部品を集めて船舶を建造した場合には、「船舶の新造」に該当するため、新たな識別番号が割り振られ、法的にはもはやまったく別物の船舶として取り扱われることになります。

答えが曖昧な哲学的思考ではなく、この「白黒はっきりつけましたよ」感が、法律事務の好きなところではあります。笑

まとめ

私個人としては、一見すると「無駄」に思えることに時間を費やせることこそが、「人間らしさ」の象徴であるものと考えます。

哲学は答えが見つからない学問ですし、何なら船舶にしても、一般層からしてみれば「無くても生きていける物」です。

ただ、私は学生時代から「空想(妄想?)少年」でしたし、自動車免許は所持していない割に、将来的には「船舶の所有」を目標に掲げる「夢見る中年」だったりもします。そしてこの「煩悩」こそが、私の仕事におけるモチベーションの基盤となっていることも、また紛れもない事実です。

このように、他人からしてみれば不必要に映る事柄に対して情熱を傾けることも、自分自身がより良く生きるための道標ではないかと思います。

最後になりましたが、そもそも本稿自体が、皆様にとって「無駄なこと」であることをお伝えして締めくくりたいと思います。貴重なお時間を駄文に消費していただき、誠にありがとうございました。

前の記事

月と海のただならぬ関係